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【新庄劇場開幕?!】日本ハムファイターズ背番号1の歴史

 

11月4日北海道日本ハムファイターズの新監督就任として新庄剛志が会見を行いました。

 

選手時代よりもパワーアップした新庄節が早くも披露され、北海道日本ハムファイターズファン、プロ野球好きだけでなく野球を知らない人までもワクワクさせてくれるような気がしました。

 

そんな新庄監督の背番号は現役時代と同じく1番を付けることになりそうです。1番と言えば新庄剛志というイメージもありますがこれまで日本ハムファイターズで1番を背負ってきた選手は誰だったのか見ていきたいと思います。

※今回は1986年〜2022年を振り返りたいと思います。


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1986年〜1998年

広瀬哲朗

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写真:週刊ベースボール

 

富士宮北高→駒澤大学本田技研日本ハムファイターズ(1986〜1998)

 

駒澤大学時代から日米大学野球選手権大会の日本代表に選ばれるなど注目されており1982年のドラフト会議にてヤクルトスワローズに4位指名されるも拒否し本田技研に就職。社会人になっても野球を続け、社会人野球選手権大会優勝や優秀選手賞、IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表になるなどその実力を衰えることなく発揮し1985年ドラフト会議にて日本ハムファイターズの1位指名によりプロ入りする。

入団当初から守備には定評があり1986年のジュニアオールスターではMVPを獲得したが、打撃には難があり1軍定着は遠かった。バント要員、代走要員、守備固めで起用されることが多い中、1993年主将になると正遊撃手であった田中幸雄を外野手に追いやり遊撃手のレギュラーを掴んだ遅咲きの選手だった。

1993年、1994年とベストナインゴールデングラブ賞を受賞。1995年は再び田中幸雄に遊撃手を奪われるも三塁手へのコンバートで試合に出場。1997年に落合博満の加入により出場機会が激減し、1998年故障により現役引退を決意。

引退後は野球解説者やタレント、少年野球やリトルシニアチーム、社会人野球の監督を務めるなど幅広く活動を続けている。

 

1999年〜2003年

阿久根鋼吉

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花咲徳栄高→創価大学NTT関東日本ハムファイターズ北海道日本ハムファイターズ(1999〜2005)

 

創価大学では6連覇を達成し、NTT関東では日本選手権で3試合連続ホームランを放つなど優勝に貢献し最優秀選手にも選ばれた。1998年のドラフト会議にて日本ハムファイターズから5位指名を受けプロ入りを果たすと、広瀬哲朗の背番号1を受け継ぎ即戦力として大きく期待されていたが1軍には定着できなかった。

2003年に開幕スタメンなどキャリアハイの82試合に出場するも、2004年には移籍してきたSHINJOに背番号1を渡し背番号9に変更。怪我などもあり出場が激減するなか2005年に戦力外通告を受け引退。

現在は埼玉県の三郷リトルシニアの監督を務めている。

 

2004年〜2006年

SHINJO

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西日本短期大学附属高→阪神タイガースニューヨーク・メッツサンフランシスコ・ジャイアンツニューヨーク・メッツ北海道日本ハムファイターズ(1990〜2006)

※ここでは北海道日本ハムファイターズ時代の内容を記載します

 

MLBから日本球界へ復帰する際に、最初にオファーのあったチームに入団すると決めていたということもあり北海道日本ハムファイターズに入団すると、昔よりもさらに拍車のかかったファンサービスでファンはもちろんチームを盛り上げました。北海道日本ハムファイターズの球団第1号の本塁打を放ってます。

2004年のオールスターでは試合前にMVP宣言を行い、試合では本盗を成功させるなどの活躍で見事MVPに輝く。その後のシーズンでも幻のホームランやゴレンジャー、スパイダーマンの被り物などファンを魅了し続ける2004年であった。

2005年も変わらずのパフォーマンスを披露し続け、交流戦阪神線では甲子園で本塁打を放ち阪神ファンからも大きな拍手が送られる中、この本塁打を「オレを育ててくれたこの球場に感謝打法」と命名し話題を呼んだ。オールスターでもまたしても新庄劇場として、ユニフォームを改造したり黄金色のバットを使用したり、スパイクにダイヤモンドを仕込むなどファンを盛り上げだ。規定打席に到達しないもゴールデングラブ賞に選出されるも自ら受賞を拒否する場面もあった。

2006年は1年通して6番として出場し、盛大なパフォーマンスはもちろん、開幕まもなくして引退宣言を行うなどファンを驚かせ続けた。レギュラーシーズン最終戦では背番号を阪神入団時に付けていた63に変更して試合に出場し感動の終わり方となった。その後のCS、日本シリーズでもチームは勝利し、北海道日本ハムファイターズ入団時に掲げていた「札幌ドーム満員」「チームの日本一」を見事に達成し引退となった。ファンからは引退撤回の署名が集まり球団も新庄に自由契約を勧めたが、本人の意志は固く任意引退として終える形となった。

引退後はタレントや会社設立、馬主、映画の総指揮、俳優、歌手、野球解説者など多方面で活躍をしていた。2019年には現役復帰宣言をし、12球団合同トライアウトを受験。1安打を放つもオファーはなく現役復帰を断念。

2022年北海道日本ハムファイターズの新監督に就任する。

 

 

2007年〜2010年

森本稀哲

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帝京高→日本ハムファイターズ北海道日本ハムファイターズ横浜ベイスターズ・横浜DeNAベイスターズ埼玉西武ライオンズ(1999〜2015)

※ここでは日本ハムファイターズ北海道日本ハムファイターズ時代の内容を記載します

 

帝京高では1998年の3年時に主将として甲子園に出場し、3回戦の浜田高戦では和田毅から同点ホームランを放つも敗退。その後のドラフト会議にて日本ハムファイターズから4位指名を受けプロ入り。

2003年に開幕スタメンに名を連ねるも打撃不調と阪神タイガースから移籍してきた坪井智哉にレギュラーを奪われ守備固め、代走要員がメインとなる。2005年よりレギュラーを掴み、2006年には最多得点とゴールデングラブ賞を受賞し、日本シリーズでは優秀選手賞を受賞。オールスターでは2004年のSHINJO以来3人目となる本盗を決めるなどSHINJOと共にお祭り男として盛り上げた。

2007年にはSHINJOから背番号1を引継ぎ、2年連続のフル出場を果たし、ゴールデングラブ賞ベストナインを受賞するなど大きく評価された。

2008年も5月に左手小指を骨折し打撃も不振となるが3年連続ゴールデングラブ賞を受賞。2009年は糸井嘉男の躍進により出場機会が激減する中FA権を獲得するも迷うことなく残留を決意する。

2010年も西武ライオンズの野上亮磨から死球を受け3年連続の骨折となるも2年連続の最多犠打を記録するなどチームに貢献。この年のオフにFAにて横浜ベイスターズに移籍することとなった。

引退後はコメンテーターや野球解説者として活躍している。

 

2011年〜2012年

空き番

 

 

 

2013年〜2016年

陽岱鋼

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福岡第一高→北海道日本ハムファイターズ読売ジャイアンツ(2006〜)

※ここでは日本ハムファイターズ北海道日本ハムファイターズ時代の内容を記載します

 

野球留学として福岡第一高に入学し高校通算39本塁打を放ち、2005年ドラフト会議にて北海道日本ハムファイターズにドラフト1位指名を受けプロ入りする。

2006年はチャイニーズタイペイ代表として活躍する中、プロ野球では1軍出場はないものの2軍では月間MVPを獲得するなどシーズン通して活躍。2007年には1軍で55試合の実績を積みながら2007年、2008年、2009年と2軍で実績を残し、2010年ついに1軍に定着する。

2011年は森本稀哲の抜けた穴を埋めるべくシーズン通して出場しプロ入り初めての規定打席に到達し、2012年持ち前の守備を評価されゴールデングラブ賞を獲得、オールスターではMVPを獲得、シーズンで唯一のフル出場を果たすなど躍進の1年となった。

2013年から背番号1を背負うと2年連続全試合出場全試合スタメンを達成し、リーグ最多得点、盗塁王のタイトルも獲得し絶好調のシーズンとなった。

2014年は怪我で連続出場記録が途絶えるも好調な打撃はシーズン通して顕在で、得意の守備でも3年連続ゴールデングラブ賞を受賞した。

2015年2016年と骨折で思うようなシーズンではなかったが時折見せるビッグプレーでチームに貢献したり、2016年には自己最高の打率を記録、また4度目のゴールデングラブ賞に輝くなどチームにも個人にも輝かしい結果となったが、クライマックスシリーズでは絶不調に陥り代打・守備要員となる。FA権を取得し北海道日本ハムファイターズとも残留交渉を行ってきたがチーム構想と合わずFA権を行使し読売ジャイアンツに移籍する。現在も読売ジャイアンツにて活躍中。

 

 

2017年〜2021年

斎藤佑樹

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早稲田実業早稲田大学北海道日本ハムファイターズ

 

2006年夏の甲子園にてハンカチ王子として世間を騒がすとともに優勝を果たす。プロ入りをせず進学した早稲田大学では、1年から開幕投手、MVP、ベストナイン最優秀防御率、日米大学野球選手権大会日本代表、最多勝を獲得する大車輪の活躍を見せ、後の大学4年間で六大学野球史上6人目となる30勝300奪三振を達成するなど大活躍でチームに貢献。2010年のドラフト会議にて4球団競合の末、北海道日本ハムファイターズに1位で入団する。

2011年背番号18を背負った斎藤佑樹は怪我もありながらローテーションの5番目として投げぬき6勝6敗防御率2.69のまずまずの成績でシーズンを終える。

2012年開幕投手としてマウンドに立ち9回1失点完投勝利をあげるも、その後はシーズン通してフォームが定まらず不本意に終わる。

その後の2014年〜2016年もパットしないシーズンが続き2016年オフに球団が輝きを取り戻してほしい意味も込めて背番号1を提案し、2017年から背番号1を背負うことに。しかしその後も怪我などもあり2軍生活が長く続き、そして2021年現役を引退しました。

 

2022年

SHINJO

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「僕のイメージっていったら、やっぱり『1番』じゃないですかあ…。その『1番』を付けたいという気持ちもあるんですけど、やっぱり主役は選手。スター候補を僕が育てて、その子に『1番』を付けてもらいたいと思っているので」と話しながらも、「その子たちが育つまでは、僕が『1番』付けまーす!」と左手を挙げて宣言。「まずは僕が付けまーす! 目立ちまーす!」と白い歯に満面の笑顔で高らかに宣言した。

因みに直近の監督背番号1は2007年、2008年オリックス・バファローズのコリンズ監督。これは現役時代から愛着のある背番号で当時付けていた後藤光尊にお願いをして譲ってもらったそうです。

 

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。

背番号1にはチームの顔となったり伝統を引き継いでほしいと思われるような選手が付けていましたね。

背番号だけでも盛り上がらせてくれるSHINJOこと新庄剛志から目が離せませんね。本人も話していましたがこれを機にプロ野球を変えてくれる姿をとても楽しみにしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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